『零戦里帰りプロジェクト』をご支援頂きました皆様へ、

この度、『零戦里帰りプロジェクト』を終了するにあたり、これまで支援頂いた多くの皆様への謝意をお伝えするとともに、これまでの 13 年間の経緯などを長くなりますがお話ししたいと思います。(●は注釈です)


【零戦との出会い】

 私は 1990 年代から世界の大戦機、最新鋭の戦闘機・民間機からエアレースをはじめとした航空ショーに至るまで幾つかの航空雑誌で紹介してきました。

 2004 年に取材で訪れたアメリカ・北ロサンゼルスの博物館の倉庫の隅で零戦 21型(現在ハワイ真珠湾博物館蔵)を発見して以来、零戦の日本里帰りを『シュナイダー』や『航空ファン』をはじめとした航空雑誌等を通じて提唱させて頂きました。

 私の中での『零戦』とは、現在の平和と豊かさをもたらせた明治維新以降の日本の科学技術文化 150 年の歴史の証人であり、世界に誇れる技術遺産です。日本は明治維新からわずか 70 年で刀鍛冶から世界最先端、最強の航空機を作り出し、木造の船大工から世界最大の戦艦、空母、さらには数々の潜水艦まで建造しました。

 我が国は戦後 75 年の間に世界に類を見ない経済成長を果たし、国際紛争に巻き込まれることなく平和な生活を享受してきました。この事実を根底から支えているのは、多くの先人たちの努力により作り上げられた産業と英知、さらには祖国や家族を守るために自らを犠牲とした数百万人の尊い命であることを忘れてはならないと思っています。

 私は 19 歳で日本を出てこれまでに 70 数か国を旅し、40 年間海外をベースに生きてきました。この 30 数年はニュージーランドに在住し、フライトジャケットを中心としたアパレル業、輸出入業など商業活動をしてまいりました。

 家族を愛し、人を愛し、国を愛するとことは我々人間が自然に持っている心です。家族を守り、愛する人を守り、祖国を守るということは全世界の国々、人々の共通の願いです。

 日本は明治維新から太平洋戦争の敗戦まで、祖国日本と人々を守るために何度も国運を賭けた戦いを選択しました。それが正しかったか間違っていたかは、その時代を知らない我々に判断できることではありません。

 今の豊かさと平和は、明治維新から 70 年程で作り上げた産業と工業技術をもとにもの作りをした結果であり、戦後教育の中で失ったものは祖国、母国を愛する愛国心、郷土愛、博愛ではないかと強く感じています。

 愛国心を失った民族は滅ぶと言われていますが、零戦の里帰りと私が目指した国内飛行活動は、近代以降の技術遺産である零戦を日本全国で飛ばし続けることによって青少年教育に資し、戦後教育の中で放棄、封印された近代日本の歩み、歴史を正しく理解し、郷土愛、世界愛、博愛の気持ちを持ち、祖国日本に誇りを持って貰うためでした。


【プロジェクトの始まりと挫折】

 当プロジェクトの始まりは 2007 年秋です。「北海道の小樽にテーマパークを作り、そこに零戦を入れたい」と地元準備委員会から、かねて海外での大戦機の紹介とともに零戦の日本国内保存を提唱していた私に零戦購入手配の依頼がありました。

 私は 1970 後半ニューギニアで回収され 1990 年頃から 10 年の歳月と延べ 38 万時間を費やして復元された零戦 22 型を探し出しました。2008 年春に購入契約を交わし、私が保証人として関わりました。しかし、その年 9 月に起きたリーマンショックによる経済危機から小樽のプロジェクトは崩壊し、関係者はプロジェクトを放棄しました。そしてその購入責任は保証人となった私に課せられました。そのため、当時ニュージーランドに持っていた牧場や自宅を売却し、足りない部分は協力をお願いして、漸く機体を保全し終えたのは 2010 年春でした。

 保全後、零戦の日本里帰りを目指して活動している中で、フジテレビ開局 50 周年の記念番組『永遠の 0』撮影の際に機体実写というお話を頂きました。原作者の百田尚樹先生にも何度かお会いしてお話を伺う機会も頂きました。

 2011 年に入りアメリカ・カリフォルニアからの零戦日本国内移送を進めている中で 2 月 22 日、私が長年住み続けてきたニュージーランドのクライストチャーチを直下型の地震が襲い、街の 1/3 が倒壊、半壊しました。それから 3 週間程後の 3 月11 日には東日本大震災とそれに続く福島原発事故が起こり関東、東北地方に甚大な被害と凄惨な爪痕を残しました。

 日本中の経済と動きが停滞する中で 50 周年特別企画の撮影も中止となり、同時に零戦の里帰り計画も無くなりました。

 漸くたどり着いた最初のスタートラインが消えてしまったけれども、零戦をどうにか維持し里帰りを実現させたいという強い思いが消えることはなく、アメリカの大戦機コレクター、戦争博物館などにアプローチして零戦のアメリカでの維持保存を進めました。しかし現実は厳しく、零戦を預かり、整備維持を申し出てくれたのはカリフォルニアから 6000km 離れたアラスカ・アンカレッジの博物館のみでした。

 スタート当初から資金難の中で、整備、保険、維持管理など年間 10 万ドル以上掛かる費用を出してくれるアラスカにその年の夏、零戦を移動させることになりました。その際はフェリー移動と言われる2機の伴走飛行でロサンゼルスのカマリリョ空港からアンカレッジまで零戦を飛ばしました。

 アラスカは冬が半年もある自然の厳しい土地、当然零戦が飛行できるのも半年の中でさらに天候に恵まれた日のみに限られますが、そこで暫し翼を休めている間に東日本大震災後の日本全国を回って里帰りの協力要請を続け、2012 年には零戦里帰りの記者発表まで漕ぎつけました。しかし、具体的に動き出すには新たな番組撮影企画が始まる 2014 年まで掛かりました。


【横浜上陸】

 その企画は、テレビ東京の開局記念番組『永遠の 0』を零戦機体実写で撮影するというものでした。何度かアラスカとニュージーランド、日本を飛び回り、アラスカで購入した 40feet コンテナ2本に零戦を分解して積み込み、アンカレッジ、シアトル経由で出航させました。

 撮影予定時期に合わせるため数か月前から準備を始めました。因みに零戦をアラスカから日本に運ぶ経費は 700 万円です。コンテナはオープントップ型の天井が無いもので、積み荷の一番上にしか載せられないため輸送費は通常の 2 倍かかります。アラスカには貸し出しコンテナがないので、買取りに 120 万円掛かりました。

 のちに日本人戦後初の零戦パイロットとなる柳田一昭氏と会ったのもこの頃で、在住するカリフォルニからアラスカまで来て、機体の分解からコンテナ積み込みまで協力して頂きました。

 アンカレッジを出たコンテナは予約したシアトルからの乗せ換え便に乗れば予定より早く横浜に到着するはずでしたが、シアトル港到着の段階でアメリカ商務省から書類上、武器輸出の可能性を指摘され足止めになりました。

 大戦機であるが一切武器を携帯せず、現在は一般の機体として航空局に認められていることでシアトルからの出航許可が出たのは、予定から 2 便 3 週間も遅れたものの何とか撮影には間に合うタイミング。胸を撫でおろしたのもつかの間、70 年ぶりに祖国日本に帰還した零戦に対して両手を広げて迎え歓迎してくれるものではありませんでした。

 横浜港に到着して通関手続きを進める中で、経済産業省から「零戦は武器輸入に当たるのではないか」という指摘が出てきた話とともに、零戦の「輸入」に対して税金の支払いを求められました。

 アメリカ国籍となっている零戦がアメリカで一般機と認められていることから、武器輸入の嫌疑は直ぐに晴れましたが、関税はかからないと事前に確認していたにもかかわらず、横浜入港になったところで輸入消費税 2000 万円の支払いがない限り零戦は保税倉庫で保管されることになりました。

 当然 7 月末から予定された番組撮影には間に合わず、関係者の皆様にお詫びをして歩く日が続きました。また、税金の支払いをしない限り保税倉庫から機体を受け取れない状況から、私も含め関係者が奔走して資金を借り集め関税を支払い、機体を保税倉庫から引き出したのは 2 か月後の 9 月末のことでした。

 漸く祖国の土地を踏んだ零戦を一人でも多くの人に見て、その存在を知って頂こうとその年の 11 月埼玉スーパーアリーナの展示場を使って零戦の機体をエンジン、主翼と胴体中央部分、尾翼、オリジナル栄エンジンと、船積み時と同じ分解したままの形で展示を行いました。

 開催期間には連日、全国から多くの方々に来場頂き、また、報道関係者の皆様にもさまざまな媒体で広く取り上げて頂きました。


【鹿屋に向け】

 ここから本格的に零戦の日本での活動を進められる勢いを感じクラウドファンドを立ち上げ、関東から鹿児島までの移送と組み立て、エンジン始動までの経費 2500 万円を集め始めました。3 か月後にはクラウドファンドが成立して、機体は神奈川の倉庫からトレーラーに乗せられ鹿児島空港に移送を完了します。

 鹿児島空港のハンガーで機体の組み立てを進めていたところ、大戦当時零戦の基地でもあり、山本五十六連合艦隊司令長官の命を受け真珠湾攻撃についての協議が行われたとされる『鹿屋会談』が行われた海上自衛隊鹿屋基地から「戦後 70 年に当たる2015 年に全国の自衛隊隊員教育も兼ねて、鹿屋基地での零戦里帰り飛行を目指しませんか」という要請が何度かありました。

 クラウドファンドの支援者のおかげで漸く片道 400 万円のトレーラー移送で関東から鹿児島までたどり着き、組み立てを始めた機体をまた分解して多額の移送費を自費で支払い鹿屋まで移送し、基地での駐機代を支払いながら里帰り飛行を目指すということには中々結論が出ませんでしたが、関係者の総意として最終的には零戦の歴史的な意義、鹿屋基地との歴史的な関わり、自衛隊から度重なる熱心な要請にこたえる形で零戦を海上自衛隊鹿屋基地に移送して、そこでの組み立てを行うことになりました。

 鹿児島空港から鹿屋まで特殊トレーラーでの移送には 200 万円掛かります。因みに零戦が鹿児島空港から鹿屋まで飛んだとすると精々2 万円の燃料代です。飛行機を陸送することが如何に費用の掛かることか分かります。

 2015 年 6 月初めから鹿屋基地での組み立てを行い、エンジン始動まで完了させて国交省航空局の検査官の機体審査を受ける準備がすべて整い、戦後 70 年にあたる2015 年の 8 月に里帰り飛行が出来るところまでなんとか漕ぎつけました。アラスカを出てから1年以上、数々の困難とハプニングに対処してきた日々を噛みしめながら関係者一同胸躍らせていました。

 そんなところに突然入って来たのは、防衛省からとして『鹿屋基地での零戦飛行の中止要請』でした。政府が安保法案強行採決を進めたことから、鹿屋基地での零戦飛行がプロバガンダと受け取られる懸念があるからと説明がありましたが、納得出来るものではありませんでした。

 スタートから 7 年、幾多の試練、苦難を乗り越えて漸くたどり着いた零戦の祖国日本での飛行と我々の思いを打ち砕くには十分過ぎるものでした。当然、私は予定通りの飛行を最後の最後まで強く要求しましたが、認められませんでした。

 8 月に入り、鹿屋基地から「零戦を解体して何処かに運び出して欲しい」という話が来ているというので、私は関係者と鹿屋基地を訪れました。組み立てた機体を分解し移送するにはあまりにも多大な費用と労力が必要なことを説明し、試験飛行をした上で鹿児島空港に移動するという提案を何とか受け入れてもらいました。

 これが防衛省、鹿屋基地から「戦後 70 年節目の年に自衛隊隊員教育のためにも、零戦里帰り飛行を鹿屋で目指しませんか」との度重なる要請に応じたことへの対価でした。


【いざ空へ】

 8 月 15 日に向けた飛行を断念したあと、国交省航空局の零戦機体検査の予約が取れるまでにはさらに数か月を要しました。12 月に入り漸く機体検査を完了しましたが、基地からの飛行許可が下りたのは年が明けた2016年 1 月末。既に 7 月の初飛行予定から半年の月日が過ぎていました。

 零戦の里帰り初飛行は 1 月 27 日と決まり、一般の方々の基地入りは一切できませんでしたが、報道関係者のみということで国内はもとより韓国、中国も含め 70 余りの報道機関から鹿屋での取材申請を頂きました。

 上海テレビも韓国中央日報も零戦の里帰りに対してとても好意的な報道をしてくれたことは、ここで書き留めておきたいと思います。逆に国内メディアから零戦パイロットのアメリカ人に「敵国の機体を操縦する気持ちを答えて」などと時代錯誤な質問もありました。

 現在飛行可能な零戦 5 機すべてがアメリカで復元されアメリカの航空局に登録され、飛行していることからも、彼らが零戦の飛行機としての大きな価値を認めていることが分かります。ドイツ、イギリス、イタリア、アメリカ、ロシア、日本と横並びで第 2 次世界大戦が始まった頃の各国戦闘機の性能を比較すれば、零戦は総てにおいて世界最高峰に位置づけられるからです。世界は歴史的、技術的に零戦に対して最大のリスペクトをしています。

 第 2 次世界大戦がスタートしてから 2 年間はアメリカ海軍、陸軍航空隊は『零戦を見たら戦わずに逃げろ!!』とマニュアル化していたことは多くの人が知っていることです。「零戦は戦争の象徴だ! 殺戮の機械だ! 帝国主義の象徴だ! 」という話を日本では耳にしますが、世界の認識からどこか大きくずれている違和感を常に感じます。戦争を行うのは人間です。零戦を始めとして大戦機、戦艦、銃器を作った人たち、それをデザイン、研究開発した個々の人々は人を殺すことを目的として作ったわけではありません。『祖国日本、家族、愛するものを守るために』。中学、高校生まで労働を強いられました。戦争は世界の社会悪であり人災です。

 敗戦したものだけが戦争責任を負うものでもありません。また、零戦や戦艦大和にその責任はありません。戦後の自動車産業の 90%は大戦期に航空機を作っていた会社やそれを研究していた人たちによって支えられ、30 年で世界を凌駕するに至りました。造船業も製造業もしかりです。

 明治、大正を生きた人たちが残した遺産を丸ごと受け取りながら、あの戦争は間違っていたなどと聞くと、祖国を守るために外地で 200 万人もが犠牲になり、中国黒竜江やビルマのインパールで命を失った私の叔父たちに対しても心から申し訳ない思いを感じます。


 話を零戦の里帰り飛行に戻します。

 2016 年 1 月 27 日当日は鹿屋基地で零戦壮行会を開いて頂きました。基地周辺には早朝から情報を聞きつけた多くの零戦ファンから零戦に関わった家族を持つ人たちなどが多数集まりました。飛行に関しては動画配信などにより全国の方にも里帰り初飛行を見て頂けたかと思います。勿論、この飛行を見ながら私自身も関係者も涙を抑えることは出来ませんでした。

 飛んでいる零戦の姿ほど美しい機体はありません。P-51 マスタング、スピットファイヤー、BF109 メッサーシュミットから最新鋭の戦闘機、爆撃機など空撮し取材して航空雑誌で紹介してきましたが、零戦はアルハンブラ宮殿の建物や彫刻のようにこれ以上繊細になれない悲しい美しさがあります。すべてのパーツを極限まで削りそぎ落とした姿が零戦です。


【熊本で地震が】

 零戦は翌日朝、鹿屋基地から鹿児島空港に飛行して元々組み立てを進めたハンガーに辿り着きました。

 鹿屋での里帰り初飛行を完了し鹿児島空港に帰還してから、次の企画は鹿屋市と鹿屋基地が毎年 4 月に開催するエアメモリアルイベント(ブルーインパルスが飛行する際は 10 万人が集まるというイベント)での飛行の要請を受け、鹿児島空港で整備と飛行の準備を進めていました。

 零戦は日本が作り出した機体であっても、組み立てるにはアメリカから機体エンジニアの招致をしなければならず、その度に最低でも渡航費滞在費が 200 万円掛かります。

 パイロットに関しても、飛行の際はアメリカから飛行の度に招致するというもので、世界最速エアレースのチャンピオンであるスキップ・ホルム氏を招き鹿屋での試験飛行、お披露目飛行を行いました。

 4 月に予定されていたエアメモリアルでの飛行の準備を進めている中で 4 月 6 日、鹿屋基地から飛び立った自衛隊機が鹿屋市近くの山に墜落する事故が発生しました。

 この事故でエアメモリアルの開催が危ぶまれましたが開催されるとの連絡を受け安堵していたところ、今度は開催1週間前の 4 月 14 日、あの熊本地震が起こります。

 ニュージーランドのクライストチャーチの大地震、東日本大震災、福島原発からわずか 90km の場所にあって高い放射線量に悩まされ、多くの建物が倒壊した生まれ故郷など、トラウマが一挙に蘇りました。勿論、エアメモリアルは中止となり零戦の初イベント飛行はまたしても実現しませんでした。

 アメリカからのエンジニア、パイロットの招致をキャンセルして、エアメモリアルの飛行に対して支援協力をして頂いた関係者企業の皆さんに挨拶をする中で、熊本のサンセルモさんから「震災後の熊本で零戦の飛行を」というお話を頂きました。震災で苦しむ人たちを励ましたい思いは震災に苦しんだものとして共感するものがありますから、サンセルモさんの支援という形で『熊本震災、復興応援零戦飛行』の企画を直ぐに進めることになりました。

 アメリカからのパイロットとエンジニアの手配だけでも大きな費用が掛かりますが、彼ら無しでは零戦は飛ばないという現実もあります。彼らの来日可能な日時を調整している中で、今度は「6 月初めに予定されているレッドブル・エアレース千葉で零戦の展示飛行は出来ないか」との話も入り、鹿児島、熊本、エアレースというフライトプランが生まれました。これで多くの人に零戦の存在とその活動を知っていただけると関係者一同胸を躍らせました。

 アメリカからのパイロットの到着に合わせて鹿児島に入り。機体の整備確認の上鹿児島空港から熊本に向けて零戦は飛び立ちます。人吉上空から五木村、御船町から益城町上空に入り南阿蘇、熊本市内の東側など飛行可能区域を 3 周してから熊本空港に着陸しました。当日、空港周辺にはラジオ、新聞などの情報で多くの人が集まり零戦が上空を旋回する度に手を振って迎えてくれました。震災で疲れた熊本の人たちに大空を見上げ零戦の姿を見て頂けたことには、胸が熱くなるものがありました。

 熊本空港での給油とパイロットの休憩を終え、零戦は岡山の港南空港に飛行、そこから一気に白浜空港経由でエアレースに向けた関東入りの準備を進めていたところで、72 歳を迎えるパイロットのスキップ・ホルム氏から体調不良が伝えられました。ベトナム戦争、イラク戦争で戦闘機に乗り 30000 時間の飛行記録を持つ NASAのテストパイロットですが、慣れない外国での移動による疲れが出てしまいました。

 1日様子を見た上でレッドブル・エアレースでの展示飛行ができるかどうかの最終判断をすることとして朝を迎えましたが、ホルム氏から「関東までの飛行には耐えられない」との言葉が出ました。唯一のパイロットであり、神様と言われるパイロットの判断を我々が議論できるはずもなく、またしても零戦の飛行を諦めざるをえませんでした。当然、展示飛行が出来なかったレッドブル・エアレースからのギャランティーは無く、経費はすべてプロジェクトとして持ち出す形となりました。


【日本人パイロットを】

 関係者との度重なる話し合いの中で一旦機体をアメリカに移送して、今度は日本人の零戦パイロットを養成し次の里帰りを目指すことになりました。零戦は岡山港南空港で分解され、またしても 12m のコンテナ2本に積み込んで神戸港からアメリカに移送となりました。

 零戦飛行のライセンスはアメリカ航空局の規定により、練習大戦機 T-6 ハーバードで 200 時間の飛行、離着陸の経験、またはそれに準ずる尾輪式機体の飛行経験の上で試験飛行、口頭試問に合格した者に限られています。基本的にはエンジンシステムの同じカテゴリーのもので 5000~10000 時間は乗っている人になります。

 零戦の飛行を希望する柳田さんも尾輪の飛行経験は十分あるとはいえ、T-6 ハーバードでの飛行とその試験飛行に辿り着くまでに半年以上費やすことになりました。

 機体を整備し、保険を掛けて、維持するには年間 10 万ドル以上の経費と、移送の度に 300~500 万円掛かります。イベントや興行収入が無い里帰りプロジェクトは、その殆どの経費を個人として自己負担しながら自転車操業を続けていました。

 本業のアパレルの縫製工場は、人件費が日本の倍に高騰したニュージーランドからフィリピン・マニラに移転して委託生産を始めましたが、大統領が変わったことで役所が機能せず、原産地証明が出ないなど多くの問題を抱えて 2 年掛かりの移転を撤退させたのもこの頃でした。

 零戦プロジェクトは、初めて日本に里帰りして以来、三菱重工を始め、日本全国の企業を回り零戦の国内動態保存と支援のお願いをして回る日々が続きました。交換した名刺は 800 枚以上。大手企業、全国チェーン展開のホテル経営者、飲食チェーン、法人代表、財団顧問、地方自治体の首長、国会議員の先生方など国内動態保存に協力してもらえる可能性のある皆様に日々足を使ってお話させて頂きました。

 そんな中でロスの柳田さんは T-6 の練習飛行をスタートして、3 月には T-6 のテスト飛行に合格します。残すは零戦を使ったテスト飛行のみとなりました。

 その頃レッドブルのエアレース主催者から「6 月のエアレース千葉に零戦飛行を」との話が入りました。

 既に活動費の捻出が難しくなっていた中で、例え大きな資金を得ることは出来なくてもエアレースからの飛行打診は、再び零戦を里帰りさせられ、機体の国内動態保存を進めるための片道キップだけは手に入れられると判断しました。

 6 月 6 日に飛行するには遅くとも 5 月 20 日までには横浜港に着かなければなりません。その為には 4 月下旬、5 月初めにはロスのロングビーチ港を出なければ間に合わないので、早急に柳田さんの零戦実機によるテスト飛行、ライセンス取得を完了させ、機体を分解して港まで移送する必要がありました。

 柳田さんからは「アメリカに2人いる大戦機の試験官に予約をしているから大丈夫」とメッセージが届きました。

 レッドブルの関係者からは「零戦の組み立てと飛行は自衛隊の下総基地で行う方向で交渉しています」という連絡があり、これで零戦の日本国内まで移送費用と組み立てなどの費用をカバー出来る見通しがつきました。

 しかし、現実には柳田さんの零戦実機テスト飛行は遅れに遅れ、4 月下旬にずれ込みます。最早、船便での日本到着では間に合わない状況です。プロジェクトとして零戦を里帰りさせるか断念するかの瀬戸際。レッドブルからのエアレース展示飛行の支払い費用と同額を借り受けて零戦を空輸するかどうかの判断をしなければなりませんでした

 この時の日本里帰りは、零戦にカルネビザを申請しての入国のため消費税はないも のの、カルネビザ取得に 200 万円の費用が掛かり、飛行の為の機体保険に 700 万円。この時点で殆ど資金繰りは黄信号。さらに移送や通関、陸送で 500 万円。最終的にエアレース側に空輸代 1000 万円を借金する形で零戦の二度目の里帰りとなりました。この返済には 2 年以上掛かりました。


【東京の空を飛ぶ】

 エアレース千葉で零戦が戦後初めて東京の上空を飛行したことは歴史的な快挙であったと思います。全世界 150 を超える国々に配信された零戦の飛行動画により私を始め関係者が零戦を日本に残したいという思いの一部は届いたと思います。さらにはエアレースの会場にいたお年寄りから若者まで多くの人が『悲しいほど繊細で美しい』零戦の姿を見て涙した話を伺い、里帰りを強行した事への後悔の念は一掃されました。

 一方で現実に戻れば、当初エアレース側から話があった自衛隊下総基地での機体の組み立て飛行は許可が下りず、茨城県竜ケ崎の民間空港のハンガーを借りての組み立て、整備、機体検査、エアレース当日の交通整理に至るまでプロジェクトが独自に手配し、そのすべての費用をプロジェクトが支払うことになりました。

 これが社会活動とビジネスの大きな違いです。どちらも間違っているわけではありません。

 エアレースを終了した零戦の機体は神戸空港まで飛行して、次の飛行イベントまで駐機することになりました。

 その頃までは地方のイベントでの飛行、青森三沢空港の秋の航空祭での飛行、小松空港でのイベント飛行、高松空港など話が幾つもあり、それぞれ何度か足を運んで市役所、基地、商工会などの責任者と話を進めていきましたが、飛行が具体化してゆくと同時に段々動きが遅くなり、ネガティブな責任所在確認が始まります。「零戦を飛ばすことで市民や社会運動をしている人たちに責任追及されたら誰が責任を取りますか」などと負のスパイラルに陥ることがたびたびあり、私自身もプロジェクト関係者も焦燥感を感じる日々が続きました。

 零戦が飛ぶことに誰かが責任を取るということに大きな違和感を感じつつも「戦争責任! 侵略戦争! 日本は敗戦したがまだ終戦していないのだなぁ」と思いました。


 中国、韓国で一部の批判報道はあれ、戦争責任を今でもせっせと唱えているのは世界中で日本だけの話です。

 アメリカ、ヨーロッパ、私が住むオセアニアでも F-1 やインディーカート、バイクレース、スポーツ競技、コンサート、映画、エアレース、航空ショーなどに至るまですべてのイベントは対価を支払い観戦し、鑑賞します。

 日本でもそれは同じですが、日本の場合航空ショーだけは対価を支払わないで観られるという不思議な大前提があります。自衛隊や在留米軍の存在と地域住民や自治体との関係性の問題なのかも知れません。

 「だから零戦もタダで飛べ!!」と言われても、莫大な活動経費を計上している自衛隊の PR 活動、在日アメリカ軍の基地祭などと違い、すべての費用を個人で支払う我々の活動とは凡そかけ離れた現実です。

 この様な状況が続く中でも日本とニュージーランドを行き来し、お話を頂ければ日本全国各地で零戦の国内保存、イベント飛行、PR 活動の企画などを説明して回りました。そんな中で聞いたのは次のような言葉でした。『零戦は一日何回飛べるの?』『客は乗せられないの?』『分解組み立てしてお店やイベント会場に展示できるか?』


【再びの空】

 2017 年も秋に近づいていました。

 パイロットの柳田さんから「せっかく零戦が日本にあるのだから全国を飛ばして零戦を見てもらおうよ。油代くらいは俺が仲間から集めて出すよ」との話がありました。

 零戦は飛行しても飛行しなくとも年間の保険代 700 万円は掛かります。それはオーナーである私がプロジェクトのスタートから常に払い続けていました。問題があったり、整備が必要であればその経費も支払わなければなりません。そのあたりは、燃料を入れれば零戦は飛ぶという認識とは違いますが、零戦を飛ばしたいという柳田さんの気持ちも当然わかりました。

 零戦国内飛行計画の企画は、11 月に神戸空港を出発し、鹿児島、柳田さんの生地である屋久島、北九州、高知、大阪、長野、仙台、茨城、名古屋、大阪を巡るルートで決まりました。

 これらの飛行は多くの動画で紹介されており、200 万回以上見られているものもありますので、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。

 もし動画再生1回につき 100 円をお支払い頂けたら、零戦は日本に残せたのだろうか?という思いもあります。

 全国を回った零戦は大阪八尾空港で数か月を過ごした後、2018 年 2 月再び分解しコンテナに積んでアメリカに送りました。それは新たな日本人パイロットの養成のためと、カルネビザ入国で通関した場合、新たな費用を支払ってそのビザを書き換えない限り1年以内に出国しなければならないからでした。


【やはり国内で】

 機体をアメリカに送ったものの日本国内に残したい思いは変わらず、2017 年の秋以降は零戦の日本国内での売却を目指しました。私が持てる間は持ちましたが持ちきれなくなったら次の方に持って頂くという、絵画や車、美術品と同じように零戦の意義を共有し、日本の遺産として零戦を所有してくれる方を探していました。維持、整備、飛行などの手配は要請されれば何時でも対応することにしていました。この売却の際はプレスリリースも致しましたので雑誌、SNS、週刊誌などで記事を読まれた方も多いと思います。

 2018 年 1 月ニュージーランドから日本入りした私は、零戦の国内の落ち着き先として長崎のハウステンボスや日本三大大社の一つ宇佐神宮で知られる大分県宇佐市を訪れました。

 ハウステンボスはテーマパークとして成功した場所であり、宇佐市は大戦中に海軍宇佐航空隊『宇佐空』があった場所でもあり、掩体壕、爆弾池、機銃弾痕後を始め今でも多くのものが街中に残っています。保存会の皆さんの活動も活発で歴史研究、聞き取り、書籍出版まで定期的に行っており、宇佐市も「平和ミュージアム記念館」の建設計画を進めていました。その展示企画の中に零戦を加えたいというのが地元の方々からのお話でした。

 困窮を極める零戦プロジェクトであり、零戦の維持も本当に厳しくなった中で頂くお話では一番理想的な場所であると感じました。

 知覧に隼があり、鹿屋に零戦があり、宇佐には艦爆や彗星があればという地元の思いから平和ミュージアムへの期待と意思を感じました。また、零戦を宇佐にとの熱心な方々の思いと口添えもあり、私自身も毎月のように宇佐を訪問して関係の方々と宇佐平和ミュージアムの建設について話し合いました。

 宇佐平和ミュージアムの成功のためにと私自身、東京・市ヶ谷の防衛省を訪れ、退役する F-4 ファントムを2機払い下げてもらえるように話を進め、平和ミュージアム敷地内と駅前広場にそれぞれ1機ずつ展示出来る話をしてきたこともありました。しかし、平和ミュージアムの建設も当初の 2020 年 9 月オープン予定から計画変更などがあり、零戦購入の話も、進んでは止まり進んでは止まりの連続となりました。

 何度も何度も諦めかけた所でまた宇佐市の関係者から「まだ宇佐市には可能性がある」と言われると現地訪問をして話し合いをしましたが、1 年、2 年と月日が流れました。当然その間も零戦の維持経費、保険代は掛かります。

 2018 年 3 月にアメリカに戻した機体は、ロサンゼルスの東にあるチノ空港で組み立てを行い、新たに日本人パイロットとしてデルタ航空のパイロットである松本さんが T-6 飛行からスタートして零戦飛行ライセンスを取得しました。

 プロジェクトが一進一退する中で、零戦に興味を持ってくれている岐阜県と各務ヶ原市を訪問しました。プロジェクトスタートから 3 度目です。名古屋の空のミュージアムからも零戦を招致したいというお話を頂きました。30 億円をかけた素晴らしい博物館には、機体としては YS11 とその他マイナーな機体があるだけでした。

 巨大な扉を開くと小牧空港の滑走路にそのまま出て行ける環境は、零戦の展示と飛行活動にとってはこの上なく理想的なものでしたが、その条件は零戦の駐機を無料にするのみで、それでは維持整備費を捻出できない状況に陥るために断念せざるをえませんでした。

 我々としても定期的に国内でのイベント飛行が可能なら良いのですが、中々具体化しない中で展示し、最低でも保険、整備等の経費だけは何とかカバー出来ない限り身動きが取れませんでした。


【重なる苦難】

 日本での動きが進退窮まる中、今度はアメリカでパイロット養成に使用した零戦のエンジンが壊れてしまいました。エンジニアを入れて調べると、マスターシリンダーが壊れて、修理をするのも新たにエンジンを購入して装着するのも、殆ど同じ十数万ドルの費用が掛かるとのこと。時間的にはエンジンを購入出来るのであればその方が早いとなり、数か月に渡るエンジンの積み替え作業をしなければならない状況となりました。

 里帰りプロジェクトにスポンサーがいるわけでも、『打ち出の小槌』があるわけでもありません。そして漸く再び零戦の飛行が可能になったのは、2019 年の 3 月末でした。

 4 月からは零戦の飛行を一切停止して保険の支払いを地上保管のみに変更しましたがそれでも 350 万円の費用に加え、諸々の費用は掛かり続けました。

 日本での零戦購入の話の殆どがブローカー話であり、税金対策や転売目的などからスタートしますが決まって話が立ち消えになり、新たに博物館での動態保存の話が来ても「栄のエンジンで飛ばない零戦は零戦じゃない」と突然ある知事さんから携帯に電話がかかってきたこともありました。見渡せば最終的に零戦が永住できる場所は日本には無いのかとも思いながら、海外の企業や個人で日本国内保存に協力してくれる方を探し始めました。

 2019 年末から 2020 年に入り、台湾の企業で航空機の貸し出しや日本と取引している会社の経営者の方や、日本在住のアメリカ人弁護士でパイロット資格を持つ方などに熱心にお話を聞いてもらい、それぞれカリフォルニアの現地まで機体の視察にご足労頂きました。

 しかし、この話を進めている間に新型コロナウイルスの悪夢が世界中に広がり始めます。中国から春節の休みを使って多くの観光旅行者が世界中に新型コロナウイルス感染を蔓延させたことから、国内動態保存の話も海外からの零戦国内保存協力の話も瞬時にストップしてしまいました。


【蟷螂の斧なのか】

 零戦里帰りプロジェクトのスタートから 13 年、この間に経済危機があり、3 つの大震災や原発事故がある中で挫折してはまた立ち上がった零戦里帰り、零戦日本国内永住への思いは、2020 年の新型コロナウイルスの前ですべての動きが止まりました。世界中の国々が都市閉鎖、国内移動禁止、海外渡航禁止など進める中でニュージーランド政府も住居単位以外の接触を一切禁じる厳しいロックダウンを取りました。

 この時点でプロジェクトは完全に呼吸を止めました。どんなに大きな声を上げても助けを求めても、どこにも届きませんでした。

 これまで多くの人に支援、応援、協力頂き、私自身総てを費やし捧げて、日本の国家的な遺産である零戦の国内動態保存を目指して参りましたが、その願いは実現することが出来ませんでした。

 最後の選択としては、あの零戦 22 型を未来永劫世界の技術遺産として残すことができる場所を探すことでした。機体を整備し常に飛行可能な動態保存をしてくれるところです。

 零戦 22 型は復元から 20 年以上にわたって映画の撮影やアラスカ、日本、アメリカと長い長い旅をして来ました。分解組み立て、コンテナの積み込み、積み下ろしと機体に多くの負担を掛けて来たことは事実です。これらの状況を理解し零戦の存在意義を分かって頂けるところでなければなりません。そんな中、再度全てのパーツに分解してフルレストアの復元をしますという話を頂きました。大戦機の復元とともに博物館展示、航空ショーでの展示飛行をしている財団と話を進め最終的に機体を引き取って頂きました。

 何年かかるか分かりませんが、零戦22型はまたいつか必ず新たに蘇って大空に舞い上がり、『悲しいほど繊細で美しい』その姿を世界中の多くの人に見て頂けると信じています。また、そうなる事を私自身心から願っています。


【誇りを持って】

 これまでの人生 60 年のうち、この 13 年は零戦の里帰りの為に奔走しました。今は夢破れ、茫然自失の中で日々を過ごしてはいますが、挑戦した零戦の日本国内動態保存、そして祖国日本への思いだけは決して後悔したくはないと思っています。今、私には零戦のみならず会社も事業も家もありませんが、そのことも受け入れなければなりません。

 零戦とともにアメリカとニュージーランドで『隼』『飛燕』の復元活動にも協力し関わってきました。既に半分近くまで復元が進んでいましたが、こちらも完成や里帰りは望めません。資金があればこの数年の内に零戦、隼、飛燕の 3 機を日本人パイロットの手で飛ばし日本全国を回れたのでしょうが、最早これまでと諦めなければなりません。

 私から最後に皆様にお伝えしたいのは、日本という国が世界に向けて毅然とした国家であり、一人一人の国民が多少の差はあれ日本人としての誇りと愛国心をもってこれからの国際社会でその存在を高めて欲しいと心から願っていることです。

 以上、『零戦里帰りプロジェクト』の終了に当たり、これまでの経緯をご報告させていただきました。

 これまでの活動へのご理解とご支援、ありがとうございました。心から感謝いたします。



石塚政秀
ニュージーランド
クライストチャーチ市にて


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